
父が亡くなり5月で7年が経ちました。昭和14年1939年生まれの父は、当時80歳の誕生日を迎える直前でした。。来年2027年7月5日は生誕88年にあたります。そして2月17日は母の13回忌です。ついでにわたしは来年還暦です。節目の年、いろいろと今やらないと、後回しにできないと感じております。
父は広島県福山市の大門町大門、現在の東陽台に1966年ごろから住んでいました。若いころは駅伝の選手だったこともあるそうです。腰を痛めてからは、あまり走れず、でも、水泳やスキーやゴルフを楽しむスポーツマンでした。広島電機高校を卒業後、地元でいくつかの仕事を経て川崎の日本鋼管に就職。失恋旅行に悪友に連れてこられた穂高山で母と出会い、文通を経て結婚。当時は珍しい恋愛結婚だったそうです。
余談なのですが、わたしと夫の結婚式に来ていた夫の高校時代の友人がなぜか、お父さんを連れてきていて、そのお父さんがわたしの父の悪友でした。父が母と出会ったときに、一緒にいて、「俺に婚約者がいなければ、絶対にあの人にプロポーズする。だからお前プロポーズしろ。」と背中をぐいぐい押したその人だったというのです。友達の結婚式に来るお父さんも面白ければ、この因縁?のような関係性に大いに驚きました。父はほんとうに驚いていました。夫が、そのエピソードは夫の友人そのままで驚いた、と言っていました。彼はどんなに押されても女の子に声かけたりしなかったと言ってましたが。ちなみに、夫のことをかわいがってくれていたご縁で結婚式にもきてくれていたのでしたが、池本というわたしの旧姓をきいていたので結婚式に参加したいと思われたのでしたか、実際どうだったかな。
このページの最初に掲載している油絵はせんだって、わたしの作った父のHPを見て、連絡をいただき、うちに送られてきた父の絵です。ご実家を取り壊すことになり、置く場所がどうしても確保できないそうです。子どものころからずっと見ていたということで、そんなエピソードを聞かせていただき、感動の時間でした。
父は55歳のとき、職場のお風呂で脳出血に倒れ、その後死ぬまで半身不随のままでした。それでも最初は寝たきりで身体を起こすこともままならなかったのが、リハビリが功を奏して、わりとじきに杖をついてであれば、どこへでもでかけられるようになっていました。長距離は車いすや車に乗っていました。
わたしは1995年から富山に住んでいますから、父の生前は、年に二回程度、帰省した折に出会える感じでした。母が2015年に亡くなった後は、父のお見舞いのようにして帰省していましたが、それほど数は多くなかったです。亡くなる一週間ほど前に電話で話したのが最後の会話でした。その時も父からの電話でした。わたしからかけることはついぞ無かったです。母は、今の家庭を大事にして、実家のことなど気にしないように、というのが常でしたので、わたしはわたしがしっかり生きることが最大の親孝行という気持ちでいました。母が悪性リンパ腫で亡くなる直前に一週間、二人で三朝温泉に湯治に行きました。よいことがあったとしたら、二人きりの時間、母を独り占めできる時間をもらったことでしたでしょうか。具合が悪くなって、レンタカーを借りて帰ってきた後も、なるべくそばで世話したいと思っていたのですが、「家族があるでしょう。もう十分だから、帰って自分のするべきことをしなさい。」と言われ、妹が予約してくれていたホスピスに入院したのを見届けて、富山に帰りました。それから4年と少し。
その最後の電話で父がわたしに「絵を捨ててほしくないんよ」と言ったのがまるで遺言のようになりました。
私以外の家族は絵を描く習慣はなく、わたしだけ絵が大好きだったので、父もわたしに託したのでしょうと思います。
55歳の働き盛りに脳出血で半身不随となり、はじめは寝たきりでしたが、リハビリなどで少しずつ回復していったものの、仕事に復帰することはできず、最期まで絵を描くことだけが励みとなりました。
もちろん初めは絵筆を持つこともかなわず、というより、気力もなく、鬱状態でした。元の暮らしができないと分かったときは何度も死にたいとも考えていたようです。でも入院中に出会った絵手紙を、人に乞われて教えるようになり、水彩色鉛筆から始めて、ヒーリングアートなども学んでみたり、いろいろやってみたようです。その後、徐々に油絵を再開していきました。
結婚して、福山に住んでから、丸山讃三先生に油絵を習い、庭にプレハブでアトリエを建てて日曜画家をしていた父でしたが、スキーやゴルフが大好きな人でした。利き手の左手が麻痺してしまって、最初は絵筆もおぼつかなかったのですが、初めて描いた50号の鞆の浦の風景は、のびやかで、私自身初めて父の絵をほしいと思ったのでした。その後だんだんと細かい描きこみもできるようになり、毎日午前中3時間は油絵を描く習慣でした。油絵を描いている間、絵手紙を描いている間は、普段痺れている左半身の痛みやしびれを感じないのだと話していました。
絵手紙教室も多い時は80人くらい生徒さんがいて、自宅で週に2回以上、ふれあい福祉センターや公民館などで月に1回の教室をいくつも持っていたようです。毎日のように絵手紙教室を開催している時期もありました。それもこれも母の協力があったおかげで、母が2014年の夏に入院してからは教室はお休みになってしまいました。
母は、父が病に倒れて絶望しているときに、「わたしがお父さんの目になり、手足になるから」と、言ってその言葉の通りに尽くして、おかげでだいぶ甘やかされることに慣れてしまった父がいました。時間をかければ自分でできる着替えも、手伝ってもらえば早いからと、なんでもかんでも母を呼んで手伝ってもらっている父を見ては、眉をひそめていました。母の没後に父のお世話というほどではありませんが、ちょっとした身の回りの手伝いをしているときも、ほんとうに、しょっちゅう呼ばれて、「少し動けば取れるところにあるものくらい自分でとればいいのに」、と一日何度も思ったものでした。なにが嫌と言って、リズムが乱されることの嫌さというのでしょうか、たったの年に数日程のことなのに、ほんとうに大変だと思ったものでした。毎日であれば、お互いの距離感などをすり合わせていくことは本当に必要なことだと思います。
母は、そのころ野菜を育てるのが生きがいのようになっていて、朝は借りている畑に行き、耕したり収穫したり、そのお野菜で3食、父のために食事を用意し、昼間は絵手紙教室をほぼ毎日手伝い、夕方は温水プールでリハビリをしたいという父の願いをかなえるべく、車で片道20分のプールまで送迎と、着替えの介助をし、いっしょに泳いだり、休んだり、プールのお風呂に浸かって、最期はシャワーをして、着換えて帰るという書いているだけでも眠たくなってしまう仕事をこなし、帰宅後夕食を作り、お風呂に入って就寝という暮らしをしていました。それでも父は遅くまで野球やドラマを観たりして、母が眠くてソファーで寝落ちしてしまうのもかまわずにいて、自分が寝る時間に母を起こして着替えを手伝わせていました。
ほんとに献身的とはこのことかと思うほどに働く母でした。
ちなみに母亡き後は、父は自分で着替えをしていました。わたしが帰省していて、たまたまそばにいると、ちょっと、と言って、手伝わされたものでした。

と、父母の思い出は今回はこんなところで。また、改めて書きます。
今回、3代展をやろうと思って、そのために絵を描かないと、と思って、でもライアーを彫る仕事が忙しくなかなか描けない、と思っていたのですが、この年末に頭を打って、検査は異常なしでしたが、耳鳴りがしたりしていたので、大事をとって勝手に安静にしている時期があり、おかげさまで絵を描くことができました。
具合が悪くても、絶対安静でさえなければ、絵は描けるものだなあと思ったものでした。こちらはその後、思う存分描き込んだ絵です。ちょっとやりすぎてしまいました。
ライアーを持つ人形と春の花
2026年制作

抽象画
ただ喜びのエネルギーで描いた絵です。2013年ごろ制作

娘のイラストです。
一枚、今回の展示のために書きおろしてくれました。ほかは、過去作品より。細かな解説はありません。
flower3
2026年制作

flower2
2022年制作

吸血鬼
2022年制作

flower2
2020年制作

思い出
2021年制作


